同期との会話から考えた、教員の働き方について。

この記事は、教員の働き方に対する考え方について述べています。

※この話の出来事及び、登場人物がフィクションかどうかは、皆さんの判断にお任せします。

同期の2人の先生と飲む機会がありました。

教員も人間です。

一般サラリーマンと同様、仕事に対する愚痴を酔いに任せて吐き散らしたいときだってあります。

三者三様、それぞれの境遇であった不満を肴に盛り上がりました。

でも、2人の話を聞いているにつれて、僕の中で言いようのしれない違和感がどんどん強くなっていったのです。

「誰もやらないから自分がやる」という、筋違いな正義感

例えば、こんな話がありました。僕と初任校が一緒だった、A先生の話。

うちの学校さ、子どもがものすごく朝早くから登校してくるの。
でも、子どもたちだけの状態だと、何かあったら大変じゃん?危ないじゃん?

だから、最近私6:30に家を出て、7時前に学校についてさ、
子どもたちと毎朝遊んでるわけ。

…いやあ。教師の鏡です。

こんな素晴らしい先生と、初任校が一緒だったなんて至極光栄ですし、
逆に僕みたいなポンコツくんがパートナーで、本当にすみませんでした(苦笑)

さらに話は続きます。

そんでさ、職員室に戻ると、のんびり出勤してきた先生たちが
優雅にコーヒー飲んでるわけ!

朝ヘトヘトになって戻ってきた私に、副校長は
「おう、ご苦労さん!」

ご苦労さんって!私が欲しい言葉はそれじゃなくて感謝だよ!

…んん?

彼女の怒りはどこに向かっているのか

彼女がしていることが賞賛に値するのは、いうまでもありません。

一見ただ子どもと遊んでいるように見えながらも、
大人の目の届かないところで怪我をしないようにと、安全管理に努めているのですから。

しかも、自主的に。

でも、彼女が抱く怒りは、何に対してだったのでしょうか。

自分がこんなに朝早くから頑張っているのに、
その一方でのほほんと出勤してくる同僚に対してでしょうか。

それとも、自分の努力に感謝の念すら抱かず、
安易な労いで済ます管理職でしょうか。

どちらに対してだとしても、僕はナンセンスだと思います。

なぜなら、彼女の行動はあくまで自主的な行動。
義務でもなんでもないからです。

他の先生方だって、別に遅刻をしてきたわけではありません。

始業前ですから、1日の始まりに備えてコーヒーを飲むことも、
何ら悪いことではありません。

それなのに、

「皆さんがやらないから、私が朝早く来なきゃならないんじゃないですか!」

なんて、仮にA先生が言ったらどうなるでしょう。

「いや、誰も頼んでないし。」と一蹴されてしまうのがオチです。

また、もしA先生が早朝出勤をやめて、
それで早くに登校してきた子どもに何かあったとしましょう。

責任がA先生にあると言えるでしょうか?
A先生に任せっきりだった周りの先生が、A先生を責めることなどできるでしょうか?

そう、A先生は強い責任感のもとで、
知らず知らずのうちに自分で仕事をストレスを増やしていたのに過ぎないのです。

「子どものため」という、都合の良い言葉

子どもに何かあったら大変だから、
「子どものため」と思って早朝出勤に励んだA先生。

僕は決して、A先生のしていることを避難するつもりはありません。
同じ先生として、本当に尊敬しています。

ですが、自分で増やした仕事で自分を苦しめているのであれば、
それは本末転倒なのではと感じます。

教員として働く僕が、常々気をつけて使わなければならないと思う言葉の1つに

「子どものため」

が、あります。

我々教員は、この言葉を突きつけられると、
なかなか拒否することができませんよね。

なぜなら、この言葉を添えた要求を蹴ると、
「子どものためになることを拒む=先生失格」というレッテルを貼られる気がするからです。

また、「子どものため」と考えると、次から次へとやった方が良いことが思い浮かんできて、
A先生のように、誰にも言われていないけど自分から仕事を作る先生も大勢います。

学校の活動に、子どものためにならないことはほぼないと言えます。

しかし、だからこそ現代社会に照らし合わせて、子どもに還元される価値の高い教育活動を精選しないと、
無尽蔵に仕事が増えていくだけです。

何でもかんでも「子どものため」と盛り込んでしまっては、
教員はますます多忙化の一途を辿ることとなります。

どの活動も中途半端になり、子どもに還元される価値も決して高くないでしょう。

だからこそ、僕は学校の責任の所在と範囲を明確に決め、その範囲から外に当たることについては、
断固として受け入れない姿勢を持たないと、これからの時代は辛いと思います。

A先生の件の他に挙げられるのは、学校外で起こった子ども同士のトラブルや、
年間教育指導計画にない、地域行事における学校単位での参加などでしょうか。

「良い人でありたい」をやめる

教員は、どうしても「良い先生」になりたがる人が多いです。

実際、僕もその願望は非常に強く、
どんなにSNSで愚痴を吐いても面と向かってはまったくNOを言えない人でした。

そして、「子どものため」と思って頑張っているときの自分って、
先生としてとても輝いているように思えてしまうんですよね!笑

でも、そうやって取り繕って「良い人」を演じたところで、
それこそ、子どもの成長に何か糧となるものがあるかと言えば、そうではないですよね。

むしろ、自分に余裕がなくなって、
心が荒んだ姿を子どもに見せてしまう方が、よっぽど悪影響です。

これからの時代、僕たち教員は、本当に子どものためになることは何かを見極める選別眼と、
それ以外のものを捨てる勇気、
そして、それを曲げない意志の強さが必要なのではないでしょうか。

A先生のケースで考えるならば、子どもの登校は家庭の責任。
もっと遅く登校して欲しいなら、その旨を伝えれば良いだけです。

仮に家庭から難しいと言われても、そもそも学校の始業時間というのは決まっているのですから、
それ以前に登校させるのは家庭の責任でお願いしますと言えば良いのです。

そうやって、自分の身を守ることが心の安定に繋がりますし、
やがては子どもたちの健全な教育に結びつくはず。

結果的には、子どものためになるんですね。