拝啓、教員を志望するあなたへ贈る手紙。
そう言えば、僕は今年、大学へ入学してから11年目になります。
僕の出身大学は、教員養成の最高学府と呼ばれることがあるほど、教員を目指す者にとってはこれ以上なく優れた大学でした。
それから早10年経ちますが、振り返って思うのは、
最高の教員養成大学に入ったからといって、立派な先生になれるなんてことはない。むしろ、その逆だ。
僕と同じように、教員を夢見て教員養成系大学へ入った方々に向けて、少しでも現場で輝ける先生になるための秘訣…というより先輩としての僕からの後悔談をお話しします。
聖人が蔓延る、教員養成大学
僕が教員養成大学に入って、最も後悔したのは出会う人々の人間性の狭さ。
悪いわけではないんです。むしろ、人格ができ過ぎているのです。
人に対して憎しみを持たない。それどころか心配してくれたり、自分に非があったよね、ごめんねと詫びてくる人など、何、この人キリストか仏陀か何かの生まれ変わり?と思うほど、人格が出来上がっている人たちばかりなんです。
1人ぼっちを見つけたら、必ず声をかけて見捨てない。落ち込んだことがあっても、すぐに立ち直って明るく振る舞う、自信に溢れた姿。絶妙な言葉選びで、絶対に人を傷つけるなんとことはしない。
そんな人たち、一体世の中の何%ぐらいなんでしょうかね。絶対、それ以上にぶっ飛んでロクでもない人間が多いに決まっているんです。
だけど、僕が過ごした大学で、特に教員を志望する人の中に、そんな人たちはほとんどいない。絵に描いたような優等生ばかり。
教職に就いてから相手にするのは子ども。そんな善人は学級に数人入れば良いでしょう。大学で共にする友人のような人間は、社会に出たらほとんどいないことに早く気づかないといけないのです。
優等生は、劣等生の気持ちがわからない
このような大学で4年間過ごすと、世の中すべての人間は皆そのような人であるかのような錯覚に陥ります。
自分の気持ちを汲み取って共感してくれ、人に迷惑をかけるべからずと、最大限のマナーを払うような、常識を完璧にわきまえた善人。世界はそのような人たちでできている、と。
でも、わかるでしょう。世の中はその正反対。
ルールに縛られるのを嫌い、自分本位に振る舞うことに喜びを感じ、自分が楽しいことができれば幸せだと考える人の方が圧倒的に多い。
なのに、そのような世界で生きていると、自分と反対な生き方の人にほぼほぼ出逢うなんてことはないから、そのような人たちの気持ちがわからなくなる。
常識の中で生きているわたしたちは何でそんなことができるのか、理解できなくなる。
理解しようとしなくなる。
理解ろうとしないというのは、非常に危険なことで、もはやそれは他者の拒絶に変わりないんですね。一番先生がしちゃいけないことだと、僕は思っています。
この姿勢は、授業でも顕著に表れてしまうんですよね。例えば2+3のような簡単な足し算がなぜ理解できないのか、どうして「の」というような1画で書けるような字でさえ、まともに書けないのか。
教員を目指す人たちは、比較的学校の勉強で苦労しなかった優等生ばかり。彼らの中の「常識」では理解できるはずのことが、どうしてわからないのかが、本気でわからないんですよ。
そういう意味では、僕は勉強がまったくできなかった人が先生に一番合っているとさえ、考えています。
インカレをしろ
この呪縛から逃れるためには、外の世界に進んで触れることが一番。
最も良いのは、インカレ(他大交流)をすることだと思います。それも、世間で「二流、三流大学」と揶揄されるところ。
自分の友人圏にはいないような人間に出会ってこそ、自分の中の「常識の枠」を広げることができます。その枠は、若ければ若いほど柔軟に伸びます。
自分の世界の埒外にあるような価値観に触れることで、教職に就いたときに、多様な子どもたちをより受け入れてあげられる先生になることでしょう。
学力以外の、本当に大切なことを見つけよう
あなたは、どうして教員になりたいと思いましたか?
きっと、自分の授業で成績を上げたいとか、そんなことが動機ではないと思います。それが第一動機なら、学校より塾の方が適職です。
子どもの成長に貢献したい。心優しい人になって欲しい。社会で活躍できる人間になって欲しい。
そんな願いがあったはずではないでしょうか。
でも、それを叶える最終的な目標って、「学力」なのでしょうか。
あなたが教員になったら、嫌というほどにこの「学力」が仕事にまとわりつきます。
全国学力調査を始めとした、様々な学力調査で子どもたちの学力が露わになり、平均を超えていなければ自分の指導不足を感じざるを得ません。
落ちを取り戻すために補充指導を組み、少しでも点をあげるように努力する…。
でも、ひとまず落ち着いて考えてみて。
生きていく上で大切なことって、本当にテストで良い点を取ることなんでしょうか。
テストの点を取ることが、果たして人生でどれほどの価値があるのでしょうか?
学校で一番教えなければならないことって、本当にそれ何でしょうか。
教育に関係ない経験をしよう
教員養成大学では、良い授業の方法とか、教科の専門性といったことを中心に学ぶと思いますが、残念ながら教壇に立ったとき、そのほとんどは役立ちません。
当たり前です。僕たちが面する相手は「子ども」という「ナマモノ」。決して紙の中で生きてはいないのですから。
僕も、初めは「教育大学に入ったなら、やっぱり塾講師かな」という安易な理由で、ある大手の塾で講師のアルバイトをしたことがあります。
でも、そこでは「先生として」という先入観が邪魔をし、子どもたちに綺麗事の正論でしか話ができず、結果として授業が成り立ちませんでした。
僕は、この塾で学校の中でしか通用しない綺麗事が、いかに一般社会では無力で意味にないものであるのかを痛感し、1年で辞めました。
その後はスーパーやレンタルショップのバイトを経験し、人間が人間の生きる世界で生きるには何が大事かを自分なりに考えるようになりました。
自分で考えて動く、協調性を大事にするなどいろいろなことがありますが、俗に言う「頭の良さ=学校での成績」は働いて生きる上でまったく重要ではないことを、アルバイトを通して学ぶことができました。
本当に大事なことは学校の外にある。それは、綺麗事に満ちた世界を破ってみなければ、決して気づかない。
幸せな世界で腐ることなかれ
おそらく、数々の大学の中で教員養成系の大学はかなり平和な世界が形成されていると思います。
建設的な話し合いができる、善人たちが住人であるこの世界では、まず争いごとが起こることが稀でしょう。
でも、世界はもっと卑劣で、残酷で、利己的です。それが世の中の常識であるはず。
「教師の常識は世間の非常識」
非常識に染まった人間にならないように、今のうちに進んで世界と交わってみてください。その経験が、いつか先生になったあなたを輝かせることでしょう。
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