僕が教員を辞めて転職した理由。(後編)

この記事は、教育関係者向けの転職について書かれています。

皆様、おひさしぶりです。ヒロシゲです。

更新が止まってから早1年。。。
にも関わらず、サイトに足を運んでくださり、ありがとうございます。

さて、前編では、僕が転職を決意した理由として、
膨大な業務に追われ、夜遅くまで残って苦しむ先生の姿を挙げました。

後編はその続き、やめられない病にかかった学校について述べていきます。

やめられない学校

初任校で4年務め、次なる赴任先は海岸沿いの小学校。
全校児童100名にも満たない、ど田舎の小規模校でした。

職員も少ないので、必然的に校務分掌はいくつも兼任するのが当たり前。
僕も例にもれず、教務・研究・生徒指導すべてに在籍した年もありました(笑)

全学年が単級なので、何年生を担任しようが自分が学年長。
他クラスと比較したり歩調を合わせたりせず、
自分がやってみたいと思ったことに挑戦できるのが小規模校の良いところです。

とはいえど、所詮は一教諭。組織の前ではその力もたかが知れたものです。

それを思い知らされたのは、そう、あの上司が赴任したときでした…

ワンマン校長襲来

転任して2年目、校長が変わりました。

前任の校長と同じ大学で、学科の後輩だそうです。
校長になって初めての赴任校でした。

ところがその校長、初めてとは思えないくらい新進気鋭で、
赴任した年から様々な改革を施してきました。

「改革」というと聞こえがいいですが、
この校長、思いつきでいろんなことをやろうとする、
つまり、計画なしのぽっと出なんです。

そんな見切り発車の施策なので、
もちろん何度も方針が変わります。
そしてあとは職員に丸投げです。

振り回される我々。
それがどんなに苦しいことかは想像に難くないでしょう。

その頃、職員の間ではいろんな業務を合理化・効率化して
不要な業務や行事は減らしていこうという空気になっていました。

新校長は、それと真逆の方向に走りました。
増やしただけ増やして、
増えた業務の分何も減らさなかったのです。

やらかした新施策は枚挙にいとまがないのですが、
ここで愚痴ってもしょうがないので割愛します。

学校の病気「変われない病」

膨張する業務を減らすため、もちろん意見も言いましたが、
「子どものためになるから頑張ってもらいたい」の一点張り。

子どものために頑張らない先生なんていません。
今までだって、そして今だって全力で子どもたちと向き合ってきました。

それでも、どんなに頑張りたくても、
今の教育現場は時間的、人的な資源がどうしても足りないのです。

はびこる「伝統」

僕の学校では、いろんな伝統が残っていました。

運動会で踊る伝統舞踊。
地域で踊り方が異なるので、6年間で
2つの踊りを覚えなくてはなりません。

それらとは別にある、全校音頭。
歌はなんと6番まであります。
BGMの演奏も、子どもたちが行います。

節づくりの教育が活発だった頃の名残のマーチングバンド。
木管・金管も含んだ本格的な楽団です。

その他、総合的な学習の時間として行われる、海洋教育。
大学の支援も受けているので、
毎年なんか大きなところで研究発表を
6年生が行います。
粗末な発表もできないため、その練習や資料準備にも
多くの時間をかけます。

「伝統」の名の下、地域に残る文化を学校が守り続けてきていました。

僕は都市部で育ったからか、地域性というものにとても魅力を感じます。
しかし、その地域に根ざす伝統は、必ずしも学校が守り続けて
いかなくても良いのではないでしょうか。

学校は、あくまで教育機関。

子どもの成長ではなく、「伝統の保持」が第一目的になった時点で、
もはや教育活動ではないと思うのです。

時代に応じて、学校が担うべき伝統と、
そして地域に委ねるべき伝統に分ける必要があるのではないでしょうか。

しわ寄せは子どもたちに

話が少しそれましたが、このように僕が勤めた学校では、
受け継がれてきた伝統によって多くの活動をしなければなりませんでした。

これらに加えて、委員会などの常時活動、

そしてさらに、校長の施策が乗っかるのです。

それらを実行するのな誰ですか?

 

そう、我々教員

 

 

…ではないんですね。

 

これらを実行するのは、他でもない子どもたちです。

特に6年生は、あるときは朝から放課後まで一切の休み時間がないときもありました。

大人だって、休憩が必要です。

それすら奪われ、我々大人が定めたものに強いられる彼らの中で
怨嗟のとぐろが渦巻いているのは目に見えていました。

教員最後の年、僕は6担をしており、
心の中で彼らに謝りつつも活動を強制させていました。

あのとき、自分の身を挺しても校長に立ち向かっていれば…
振り返った今でも、本当に申し訳なかったと思っています。

疲れた心では、どんな理屈を並べようが
子どもたちは納得してくれません。

だって僕は彼らにとって、望まない活動を強いる
小役人のような存在でしたから。

もう自分も、何のためにこの活動をさせているのか、
なぜ先生をやっているのか、
よくわからなくなってしまっていました。

変化を望まない教育界

地域の伝統以外にも変われないものが、教育界にはたくさんあります。

 

例えば資料に連絡、何でも紙で行う文化。
特に連絡1つするためにも付箋に書いて連絡しなければなりません。

 

例えば手書き文化。
温かみがあるのは賛同しますが、この時世の業務量にはどうしても釣り合いません。
誰も見ない要録をどうして丁寧に手書きしなければならないのか。

 

例えば、新しい教育への忌避。
そういえば、今年度からプログラミング教育が必修化しましたが、
現場はどのように対応しているのでしょう。
コロナでそれどころではないのでしょうが…

 

これからの時代に求められる力を育む環境を整えず、
過去の遺産を必死に守り続ける教育に、
どれだけの価値があるのでしょうか。

子どものために、「先生」の役に立ちたい

増え続ける業務に苦しむ先生方の姿、そして変わろうとしない教育現場。

この2つが、僕の生き方を見つめ直すきっかけとなりました。

たとえ自分が変わっても、力をつけても救えるのは目の前の人達だけ。
となりの子どもや、同僚の力にはなれません。

自分が経験したこと、見てきた景色から、
僕は子どもの力になるために

 

もっと多くの、子どもに関わる人々の力になりたい。

 

そう強く願うようになりました。

先生や親をはじめ、子どもに関わる人々の業務を改善し、
子どもと向き合う時間を創出することで、
最終的に子どもの幸せに貢献する。
それは自分が教員のままでは叶えられない。

こうして、僕は違うフィールドで生きることを決意し、
今、新しい道を歩んでいます。

迷われている先生方へ

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

もしかしたら、過去の僕と同じような虚無感・無力感を感じている先生、
これからも教員のままで本当にいいのか自身の生き方に悩まれている先生が
この記事を読んでくださっているかもしれません。

結論からいうと、転職することは1つの手段として大いにアリです。

先生になる人って、責任感が強い方が多いので
辞めることに罪悪感を感じると思いますが、
そんな気持ちは微塵ももつ必要はありません。

だって、あなたの人生はあなたのものだから。

自分がどう生きるかを決めるのは、
あなただけがもつ不可侵の権利です。

ただ、必ず転職がいいというわけでもありません。
教員が天職の先生だってたくさんいます。

大事なのは、自分の生き方を自分で選択すること。
もちろん、失敗したときの責任をとる覚悟も含めて。

これからは、自分の経験をもとに、
教員から別業界へ転職するときのアドバイスやコツを
記事として載せていく予定です。

転職を考えている先生方の一助となれば、
それこそ僕が願った
「先生の役に立つ」の実現といえるでしょう。